歴史・文化

おわらの歴史・文化について


なぜ「おわら」というのですか。

おわらの写真

江戸時代文化の頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあります。



「おわら」はいつごろから始まったのですか。

「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。



おわらの「踊り」はいつごろから現在の形になったのですか。

「豊年踊り」は大正9年、「おわら節研究会」の設立が契機となり現在の形に改められました。男踊り・女踊りの「新踊り」は昭和4年、「越中民謡おわら保存会」の結成後、若柳流の若柳吉三郎の振り付けにより現在の洗練された舞踊となりました。



なぜ「風の盆」というのですか。

二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。



踊りの種類について教えてください。

おわらの写真

おわらには「豊年踊り」(旧踊り)「男踊り」「女踊り」の3通りの踊りがあります。町流しや輪踊りを中心に踊られるのが「豊年踊り」、舞踊的な踊りで主にステージなどで披露されるのが「男踊り」と「女踊り」です。
豊年踊り-最も古くからある素朴な踊り
男踊り-「かかし踊り」ともいわれる勇壮な踊り
女踊り-「四季踊り」ともいわれ、春夏秋冬それぞれに異なった所作がある。



女性の帯はなぜ「黒帯」なのですか。

昔、衣装を揃える際に帯まで手が回らず、ほとんどの人が持っている冠婚葬祭用の黒帯を用いた名残といわれます。


なぜ笠をかぶるのですか。

風の盆の町廻りがはじまった頃、手ぬぐいで顔を隠して踊ったといわれたときのなごりです。



男踊りではなぜ「法被」を着るのですか。

法被は農作業衣を象っていますが、木綿で作ってもすっきりとした踊りの形にならない事もあって、羽二重で作られた贅沢な衣装です。



おわらにはどのような楽器が使われるのですか。

おわら節を唄い演奏する者を「地方(じかた)」といい、三味線・胡弓・太鼓が楽器として使われます。三味線は地歌(じうた)三味線と呼ばれるもので、棹(さお)の太さは中棹で紅木(こうき)・紫檀(したん)などで作られ、胴には犬の皮が張られます。また胡弓はもともと中国から伝わった楽器で、三味線より小型で、糸と馬の毛を張った弓を擦り合わせて音を出します。太鼓は「しめ太鼓」と呼ばれる小型のものです。昔は尺八も使用されたようですが現在は使われていません。



おわらではなぜ胡弓を使うのですか。

民謡事典でも「越中おわらに欠かせない楽器」と紹介されるほどおわらの世界に溶け込んでいる楽器で、不思議なことに他の民謡や邦楽ではほとんど使われません。明治後期から大正初期にかけて当時浄瑠璃で名を上げていた松本勘玄が八尾に来ました。ある日八尾に越後瞽女の佐藤千代が訪れ、勘玄は胡弓に出会います。以来、おわらの唄と三味線に胡弓を合わせようと、日夜研究に励みました。その苦心の結果現在の哀愁を帯びた独特の旋律が生み出されました。



おわらの「唄」「囃子」について教えてください。

越中おわら中興の祖といわれる初代おわら保存会長の川崎順二が、ともすれば野卑に陥りがちだった当時のおわら歌詞を立て直そうと、昭和初期に小杉放庵や野口雨情、長谷川伸、佐藤惣之助、川路柳虹等の著名な文人墨客らを私財を注ぎ込んで八尾に招き「八尾四季」をはじめとする秀歌を詠ませ、現在のおわら歌詞の基礎を築いたといわれています。また、おわら独特の高く繊細な調子で上句・下句を一息で唄い切る唄い方は、大正時代の中ごろに浄瑠璃語りの江尻豊治が完成させたとされています。


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