踊りの変遷
おわらの踊りを愉しむ
おわらは、素朴でその土地らしい味わいを残しながら、他の民謡に比しても、際立って美しい。それは300年間もの時代の流れに従いながらも志を変えず、先輩の情熱やおわらに注いだ愛情を変えず、時代に合わせて綿々と踊り継いできたからこそです。伝統を受け継ぐということは、たゆまぬ創造がなくてはなりません。
3通りの踊りがある
おわらは他の民謡と同様に、はじめは唄だけでしたが、そのうち楽器が入り、踊りが入ってきました。時代と共に踊りも変わり現在は、1.「豊年踊り」(旧踊り) 2.「男踊り」 3.「女踊り」(四季の踊り)と3通りの踊りがあります。
明治44年の「北陸タイムス(北日本新聞の前身)千号記念」に、そのイベントの一つとして八尾のおわらが登場し、芸者たちが即興で踊ったのが始まりといわれています。
大正2年に北陸線が直江津まで開通しました。富山県は記念事業として、東京都をはじめ7県の連合共進会を開き、9月1日から50日間の大イベントの中で「おわら」や「麦屋節」が踊られました。
その際、江尻せきが中心になり、芸者たちと歌詞や伴奏を練り直しました。「宙返り」は深川踊りから、「稲刈り」はカッポレから取り入れられたのもこの頃です。それは、これまでの芸者の色っぽくて難しい踊りから、非常に単純で美しい「豊年踊り」に仕上がりました。
大正9年に「おわら研究会」ができ、以後毎年2月に「おわら大会」が鏡町の明治座で催され、皆楽しみにしていたといわれています。2月というのは長野県や群馬県の製糸工場に出稼ぎに行っている女性が帰ってくる時期で、女性の人口が1番多い月でした。「おわら」は女性中心だったことがうかがわれます。
昭和4年に、東京三越で富山県の物産展示即売会でのアトラクションの呼びかけがあったのを契機に、富山県の要請で医師の川崎順二を中心に「おわら」の修正がなされました。踊りは若柳吉三郎、唄は常磐津の林中、四季の歌詞は小杉放庵らに依頼しました。若柳は40日間八尾に滞在し、八尾の情感を体に溜め、熟させて、5月に「四季の踊り」が仕上がりました。東京三越で初めて芸者が披露し、きれいな踊りと大人気でした。
当時「おわら」は芸者が踊り、町の娘は踊りませんでした。「女踊り」は鏡町の芸者が踊り、「男踊り」は「甚六会」が踊りました。娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもってのほかでした。しかし、医者で名門の川崎順二は、5人の娘を率先して踊りに出しました。「あの川崎先生の娘さんが踊っているのなら」ということもあって、一般の人も踊るようになったといわれています。
●豊年踊り
古くから踊られる踊りで、種まきや稲刈りといった農作業の動きを手や指先を巻くように舞踊の要領で表現しています。男踊り、女踊りを「新踊り」と呼ぶことから豊年踊りは「旧踊り」と呼ばれることもあります。
●男踊り
男踊りは、男性の舞台用として振り付けられた踊りです。日本舞踊の若柳吉三郎によって振り付けられ、素直で素朴な直線的力強さの中にしなやかさを持つ魅力的な踊りで農作業の所作を表した踊りです。
●女踊り
女踊りも女性の舞台用として振り付けられた踊りです。「四季踊り」ともいわれ、画家であり俳人でもあった小杉放庵が八尾の春夏秋冬を詠った「八尾四季」のために振り付けられたのが最初で、その後夏の河原で女性が蛍取りに興じる姿を表した一連の女踊りが完成しました。男踊りと同じく若柳吉三郎の振り付けだけに日舞の艶めきがあります。
●現在
6月の温習会の1週間を皮切りに、7月の演技発表大会、8月20日~30日の前夜祭を経て9月1日~3日の「風の盆」を迎えます。
戦時中の「踊ったら国賊」という時代背景にもめげず受け継がれてきた伝統の「おわら」は、町ぐるみの熱い思いとなって現在に至っています。
現在では、子供のころから風の盆の演舞会に出場させます。演舞会で恥をかかないようにと一生懸命練習するので、皆格段に上手になります。